8/21 新しい死体
久しぶりに渋谷に出て、布施琳太郎さんの「新しい死体」という展示を観に行った。
正直展示についてほとんど理解できていないが、なんとなくの感想を。
「社会のなかで隠され、禁止された領域について手を動かしながら思考するための方法が芸術だと思っていた」という言葉。これはよくわかる気がした。今回はそれが死体だった。
こういうセンシティブな事柄について直接的にアプローチしてしまうのはナンセンスというか、行きつく先はあいちトリエンナーレみたいになってしまうわけで、これぐらいの距離感なんだけど、どこか一体的な感じが心地いいと思った。
社会で見えないことにされてること、道徳とか規範によって隠されているもの。そういうものに触れないで生きられる人の軽さが耐えられなくて、すごくうらやましい。
軽さにしんどさを覚えるようになってからは、どこか重たい?芸術が好ましく思えるようになってきた気がする。
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一枚一展覧会
布施琳太郎 個展 「新しい死体」
8/20 シモキタ・こちらあみ子
夏休み初日でした!ハッピー!
昼から下北沢で服を見て、カフェに行って、映画を観た。理想的な休日すぎないか?一緒に行った友達はすごくおっとりした人で、あんまりそういう人と2人で出かけたことなかったから新鮮だった。
宇宙みたいなブルーのペンキTシャツを買った。これを着れる夏が終わっちゃうの悲しいな。
夜には念願の「こちらあみ子」を観た。めちゃくちゃすごい映画だったわ。画と音楽はすごく透き通ってるんだけど、内容は目をそむけたくなるようなもの。
あみ子みたいな子に対して、自分なら何ができるだろう。みんな彼女ともっと対話してほしいけど、そんな余裕ないんだろうな。なんでみんな秘密にするんじゃろってセリフがすごく印象的だった。
彼女のその後をちゃんと知りたい。投げ出して終わりにしないであげて。それじゃあ救いがなさすぎないか。
でもあみ子自身は自分のことを不幸だと思ってない感じもする。本人がいいならそれでいいんだろうか。別に社会と関わって生きていかなくても、裸足で走り回るのが許されたり、大声で歌うのが許されたりする環境にいればいいんじゃないか。ほんとはそんな単純じゃないけれど。
すごく良かったのでぜひ見てください。
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一映画一曲
「こちらあみ子」
青葉市子 「もしもし」
8/19 やっと夏休みだよ
ついに課題を提出することが出来た。留年回避。課題やばくて全然日記書けてなかった。
四月からのことを思い返すと、すごく苦しかった気もするし、案外そうでもなかったような気もする。でも課題を提出し終わっても、あんまりすっきりした感覚はない。
一か月後にはまた授業が始まって苦しむってのが分かってるからなのかな。それまでに何ができるんだろう。
教授には悩んでるわりに勉強してないねって言われて、それは確かにと思った。分からなかったら自分なりに調べるのが普通なんだろうけど、なんかしんどくてあきらめてしまう。
そこで踏ん張って頑張らないといけないんだろうけど、そのモチベーションって何なんだろう?みんなやってるから?怒られたくないから?やりたいことやってるだけじゃ生きていけないのか?
教授は学科で真面目に取り組んでる人はせいぜい半分から二十人って言ってたけど、それって本人だけのせいにするには、あまりにも頑張れてないやつが多すぎる気もする。まあ大学側としては優秀なやつがちょっといればいいんだろうけど、なんだかなあって感じ。甘えなのかもしれないけど、もうちょっと全員のことをみてあげてもいいんじゃないかな。
なんて言い訳してますが、実際うつっていう状況に甘えてたのも確かなわけで。自分の現状とかその原因を分析して、自分を正当化する作業を繰り返してきた。でも誰かが助けてくれるわけでもないし、自分の人生は自分で切り開かないといけないわけで。
立ち止まって悩むより、走り続ける方が全然楽だって最近気づいた。おりゃおりゃおりゃおりゃおりゃおりゃおりゃって生きていくぜ。
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一曲一曲
スパイス・ガールズ 「Wannabe」
8/13 ホモ・コンスーメンス
全部が他人事で、同時に自分事な気がしている。あらゆることに対して反応してしまい、一方で全部に対して真剣になれない。
永井玲衣さんの文章と、広告の「特集:虚実」を読む。これもまた気をそらしているだけ。頭は疲れる。
なんか手の動くままに線を引いてみた。最初は自由だったけど途中から既視感に作風が引っ張られて、つまんなくなっちゃった。
久しぶりに映画でもみようかな。
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一枚一曲
andymori 「革命」
8/12 まれびとと祝祭
あまりにもやる気が出ないので、思い切って出かけてしまった。
日本橋まで行って、高島屋史料館TOKYOでやっていた「まれびとと祝祭」を観た。狭い展示室だったけど密度すごかった。
内容としては日本各地のまれびとに関する文化を特集したみたいな感じで、映像もあったからパワーがすごかった。
こういう文化って、やっぱりみんなちゃんと文化をリスペクトして信じてるから成立してるんだよね。科学がはびこって、迷信と一緒くたにされてしまったせいで信じられなくなってしまったんだろうか。
それまで人だったものが、仮面をかぶった瞬間神になる。それは多分誇張とかじゃなくて、やっぱり神を演じる本人も何か背筋が伸びたような感じになるんじゃないだろうか。
8/21までやってるみたいなのでぜひ。
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一企画展一枚
「まれびとと祝祭」展
8/11 終わりの日
一日なんも出来なかった。大学入校禁止なのしんどすぎる。
好きな人に電話で悩みを聞かせてしまう。なんでできないんだろう。自分でもわかんないんだよね。
カメラを持って散歩すれば、少し救われます。
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一枚一曲
Rei Harakami 「owari no kisetsu」
8/10 短歌という魔法
青松輝・初谷むいのトークイベント、「短歌という魔法」のアーカイブ配信を観た。短歌はそこまで詳しくないけど、この配信はすごく面白かった。
魔法みたいな短歌に、まだあんまりであったことはないけれど、ある詩ないしは文章によって世界が変わるみたいなことはわりと経験してきたと思う。
魔法のかけ方を考えた時に、歌人のお二人はやっぱり短歌制作におけるテクニックみたいなもののことを考えていた。人生を映すものとして書くとき。正直と嘘と冗談。色気があるかどうか。
分かんないけど、あらゆるものにおいて、重要なことって結構当たり前で聞いたことあるってことが多いと思う。なんだけど、それだけじゃやっぱり足りなくて伝わらない。一周回ってきたやつには伝わるけど、その一周回る契機をいかに作れるか。
魔法みたいな短歌ってそういうことなんじゃないかな。重要なことは通底してるんだけど、それを具体化したり知ってるものとからめて、読み手になじみやすくしてくれてるみたいな感じ。
短歌作ってるとき以外に生きてる意味ないっていう二人。それすごいよな。それだけ制作の瞬間が輝いてるんだろうな。
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一首一首
青松輝 「第三滑走路7号」
おりゃおりゃおりゃおりゃおりゃおりゃって生きてたらはちゃめちゃに光ってる夏の海
初谷むい 「翼竜、きみのうつくしい退屈へ」
瞬きの間で恋をするような キーボード叩く音 恋をしていたような